ボランティアは偽善なのか
おばんです、ずん子です。
私は現在、震災復興のボランティア活動を行なっております。
『ボランティアは偽善か?』この言葉、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
ボランティアに打ち込んでいた私はこの言葉を聞き、自分自身が偽善者にされたような、とても悲しい気持ちになりました。
ここでは自分のボランティア活動を踏まえ、ボランティアは偽善なのか問題に正面から立ち向かっていこうと思います。
目次 ※長いので時間がない方はまとめを読んでくださると嬉しいです。
1前提条件の確認
1-1そもそもボランティアとは何か?
1-2何に対して偽善なのか
2ボランティアをする人は偽善者?
2-1自己満足?
2-2他人にいい人だと思われたいから?
2-3偽善と善意で違いはあるのか
3ボランティアそのものが偽善?
3-1善意の押し付けになってない?
3-2ボランティアという言葉がいけないんじゃないの?
4ボランティアを都合よく使う人が偽善?
5まとめ
1前提条件の確認
1-1そもそもボランティアとは何か?
そもそもボランティアって何なのでしょう?volunteerの形容詞voluntaryは「自発的」という意味です。語源的には有償無償は問わないものだと考えられます。しかし世間一般的には無償での社会奉仕活動がボランティアとみなされます。厚生労働省の資料には
一般的には「自発的な意志に基づき他人や社会に貢献する行為」を指してボランティア活動と言われており、活動の性格として、「自主性(主体性)」、「社会性(連帯性)」、「無償性(無給性)」等があげられる。
とあります。あくまでそのようなものがボランティアと言われているだけであり、ハッキリとした定義はないそうです。
次に、ボランティアの種類はどんなものがあるのでしょうか。
・震災復興
・社会的弱者支援
・こども、教育
・ゴミ拾いなどの地域活動
・地域のお祭りのスタッフ
などなど私が思いつくものだけでもこんなにあります。
ここでは私が行なっている震災復興ボランティアに絞ってお話ししたいと思います。
1-2何に対して偽善なのか
次に、「ボランティアは偽善だ」という人は、何に対して偽善と言っているのでしょうか。
私が思い浮かべたものは
①ボランティアをする人
②ボランティアという行為そのもの
③ボランティアを都合よく使っている人
の3つです。
これらについて一つ一つ検討したいと思います。
2ボランティアをする人は偽善者?
2-1自己満足?
人がボランティアを行う動機はなんでしょう。
ボランティアに批判的な人は自己満足から行なっていると主張します。
確かにその側面はあると思います。
正直なところ、私もボランティアなら全部やりたい!というわけではありません。それぞれのボランティア活動は意義があると思っていますが、それと自分がやるかは別です。無意識的に「自分にとってメリットがあるか」を考えてボランティアを選択しているのだと思います。無償でやる以上、なんらかのメリットがないと続けられないのは事実です。
私の場合は「活動を通して社会人とのコネクションを作れる」「被災地だけれども、観光地としての復興の可能性を感じたから」などの理由からとある団体にボランティアとして参加しました。
このように自分にメリットがあると思ってやる以上、自己満足の側面は認めざるを得ません。
逆にいうとボランティア活動にメリットを感じない人は、なぜ人はボランティアをするのか理解できないのではと思います。
つまり、ボランティアをするか否かはは善悪で判断されるものではなく、個々人の価値観によって判断されるものであり、その判断に他人が口出しする権利はないのではと思います。
2-2他人にいい人だと思われたいから?
ボランティアをする人は周りの人からいい人だと思われたいからボランティアをするのでしょうか?
私はそうは思いません。いい人だと思われたいなら社会ではなく友達に対して奉仕する方が直接的かつ効果的ではないでしょうか。
そのためだけにボランティアをやったとしても得られるリターンは少ない気がします。
2-3偽善と善意で違いはあるのか
偽善から行うことと善意から行うことの違いとはなんなのでしょう?
過去に「キングコング西野がゴミ拾いをする前にネット民でゴミ拾いしようという」企画がありました。その人たちの動機は西野が嫌いだから、困らせてあげたいからというものではありましたが、結果として渋谷の街は綺麗になり、街の環境改善に貢献しました。結果としてみれは善でも偽善でも社会に対して貢献できたという事実に変わりはありません。
3ボランティアそのものが偽善?
3-1善意の押し付けになってない?
ボランティアそのものが偽善であるという可能性も考えなければなりません。
自分にとっては善意のつもりで行ったことが、相手にとってはありがた迷惑であれば、それは善意の押し付けにすぎません。
例えば「被災地で炊き出しをする」という行為は、発災直後だったら大変嬉しい行為であっても、発災から数年経過した後ではお店の商品が売れなくなってしまうなど、被災された方の経済的な自立を妨げる恐れがあるかもしれません。
このようにありがた迷惑な側面もあるかもしれませんが、ありがた迷惑なボランティアは自然と淘汰されると思います。
ボランティアとは行う側と受け入れる側があって、成り立つものであり、どちらかにマイナスなものは継続しないと考えるからです。
この世に存在するボランティア活動を総和してプラスがマイナスを上回るから、今もなおボランティアが存在しているのではないでしょうか。
3-2ボランティアという言葉がいけないんじゃないの?
ボランティアという言葉は「立場の弱い者への支援」というイメージが強い気がします。
「助けてあげている」そんな言葉のイメージが「偽善なのだ」と言われる所以なのではないでしょうか。
私はボランティアをする側も受け入れる側も対等な立場であるべきだと考えます。
そのような考えをできないボランティアは先ほど述べたように「やってあげている」という思考になり、善意の押し付けになってしまうのだと思います。
4ボランティアを都合よく使う人が偽善?
今まではボランティアをする側について話して来ましたが、ボランティアを募る側についても言及したいと思います。
ボランティアという言葉を都合よく解釈し、「無償の労働力」として利用しようとする人や団体は一定程度存在します。
五輪の通訳問題などは話題になりましたね。
そもそもボランティアは「自発的」に行うものであり、無理やり無償でやらせるのは趣旨とずれています。
お金を生み出す努力をせず、人件費を削減するために安易にボランティアを利用しようとしているように思えてなりません。
五輪の例でしたら大会の公式グッズの収益や税金などを通訳への報酬を充てる…など努力できる部分はあるのではないでしょうか。
ボランティアを悪用しようとする人は偽善というか悪意があるのではないでしょうか。
色々グチグチ述べましたが、無償でいいように利用されていると分かった上で、それでも得られるメリットがあると思うならそのボランティアをやってもいいでしょう。それに関しては他人が口出しする権利はありません。(2-1で述べた通り)
5まとめ
今まで述べてきたように、偽善でボランティアをするには得られるリターンが少ないし、たとえ偽善だったとしても社会に良い影響をあたえるものであればなんら問題がないと思います。
ボランティアの中には善意の押し付けに過ぎないものも存在するかもしれませんが、それは「してあげている」という一方的な考えによりもたらされるものであり、そのようなボランティアは淘汰されて行くと考えます。
以上より、ボランティアの大半は偽善ではないと私は考えます。
極論を言えば、個人の自由意志が尊重されているこの社会では法を犯さない、または社会通念上相当である限りにおいて、他人の行動を制約する権利はないと思います。
何をするにも批判する人は批判します。批判を気にするのではなく、社会や受け入れ側にメリットがあるかを考えながらボランティアをして行くことが大切なのではという結論に自分は行き着きました。
「ずん子って誰やねん」って方はまずこちらを。
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