フェミニストが男性に食事代を出してもらうのは矛盾しているか?【前編】
※この記事は2回連載記事の第1回です。 後編はこちらから。
目次
1. 私がフェミニストを始めたとき
2.フェミニストが男性に食事代を出してもらうのは矛盾しているか
まえがき
こんにちは、ぺぱねぇです。
先日、某総合商社に勤める友人が、先輩に言われたらしい“総合職女子の3つのルール”を耳にする機会がありました。
「一つ、総合職女子として雇われたからには、人の前で絶対に泣くな。二つ、飲み会で自制できなくなるまで酔っ払うんじゃない、女の品格を貶めるからな。」
あと一つは忘れてしまったらしいが、この言葉を聞いて、
「(…いやいや!男も女も辛すぎるときは人の前で泣いたらええやん!あと総合職女子だろうと管理職のおっさんだろうと、飲み会で潰れるのは大人としての品格損なうから、ほどほどにしとけや!)」
と思ってしまうくらいには、私は十分“フェミニスト”だと思う。
その一方で、男性と道路を歩いているときに、さりげなく危険な道路側を代わってくれる人にキュンとしないといえば、多分それは、嘘になる。
今日はフェミニストであることと、女性として扱われることへの喜びという、自分の中の矛盾する欲求について考えてみたい。
1.私がフェミニストを始めたとき
ジェンダー指数世界114位をマークした日本で生まれ育っても、大学生になるまでジェンダー差別を明確に感じたことはあまりなかったと思う。
…いや、もしかしたらそれは、明確に感じることもできないほど当たり前に、存在していたのかもしれない。今思えば、中学・高校の時だって、女子である私はいつも仕事量に関わらず“副委員長”で、委員長は男子に譲るという暗黙の了解があった。それを何の疑問も抱かずに受け入れていた時から、私は無意識下にジェンダー差別を差別とも思わず、所与のものとして受け入れていたのだろう。
(もちろん、委員長になれなかった私が一方的にジェンダー差別の被害者だといいたいわけではない。もしかしたら委員長ではなく副委員長になりたかったかもしれない男子だって、ジェンダー差別の被害者になりうる。フェミニズムはありとあらゆる平等を主張するものだと思う)
明確にジェンダー差別を意識したのは、大学3年生になってからだった。グループにたった一人の女性として議論に参加したとき、明らかに自分の意見だけが通りにくいように感じたことがあった。その原因が、ジェンダーによるものか、はたまた意見の質の良し悪しによるものだったのかは、今となっては知る由もない。
ただ、そんな傾向があると感じた男性と対峙するとき、
“注意深く選んだ言葉を控えめな笑顔で飾り、目線や振る舞いで相手へのリスペクトを丹念に表現しながら、相手の癇に障らないルートを慎重に選んで自分の意見を相手に伝える”
ということを、無意識にやっている自分に気が付いた。意図せずそんな技術を身に付けていた、初めて見つけた知らない自分に対して恐ろしく嫌気が差した。そして自分をそうさせた、社会的な”何か”を恨んだ。
今回はここまで!
※この記事は2回連載記事の第1回です。後編はこちらから!
いよいよ本題へ!
奢ってもらえて「嬉しい」という気持ちは「女性として扱われることに対して」ではない。自分が他人に思い切って甘えられることへの喜びと心地よさである。
昔のように見栄を張ったり根拠のない自信を持たなくなったのは自分が大人になったからなのだろうか…。それとも…。
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