軍艦島は日本の未来を象徴しているのかもしれない。【後編】
※この記事は2回連載の第2回です。前編はこちら。
原発半径3キロ圏内へ
国道6号線は福島県富岡町-双葉町間の一般車の通行が規制されていたが、2014年の9月に規制が解除された。
国道6号線を利用できるのは車のみで、徒歩や原付での移動や、降車してどこかに立ち寄ることはできない。
念のため簡易線量計を持って行き、放射線量の変化を調べてみた。
仙台市:0.04マイクロシーベルト/時、
旧規制区域の前:0.1マイクロシーベルト/時前後
と比較的低い数値であったが、規制区域に入っていくと線量が少しずつ上がり始めた。
原発付近の双葉町から大熊町の間で7マイクロシーベルト/時を記録した時はさすがに恐怖を覚えた。
7マイクロシーベルト/時の放射線を1年間浴び続けると年間被ばく量は60ミリシーベルトになる。一般人の年間被ばく限度は1ミリシーベルトで原発作業員は50ミリシーベルトとなる。
このことから、原発周辺地域が今もなお、帰宅困難の理由がお分かりいただけただろうか。
「当たり前」の光景
実は写真を撮るのを忘れてしまい、線量計の写真しか手元にないのだが、撮り忘れてしまった理由は、6号線沿いの風景が「ごく普通」であったからだ。
この言い方に違和感を覚える人もいるかもしれないが、本当に普通なのだ。
浪江町役場付近(google map ストリートビューより)
住宅やスーパー、しまむらや幸楽苑などいわゆるロードサイド店舗が立ち並ぶ、どこにでもあるような普通の街だった。
ただ、他の街と決定的に違う点があった。どこを探しても人の姿が見つからないという点だ。
目を瞑って自分の故郷を思い浮かべた。
自分の故郷も『ありふれた街』のひとつだ。観光名所でもないし、さほど魅力的でもない。街の姿をあえて写真に残すようなこともしない。だっていつでもこの景色をみることが出来るのだから。
もしかしたら…
この街に住んでいた人々も同じようなことを思っていたのではないのか。
そんないつまでも続いていくと信じて疑わなかった日常が、あの日を境に当たり前ではなくなった。
ありふれた日常というものがいかにもろくて儚いもののか、思い知らされた。
豊かさの代償
軍艦島の住民にとっても、福島の原発被災地域の住民にとっても、そこにあった暮らしは「当たり前」のものだった。
エネルギー革命による石炭から石油へのシフトに伴い軍艦島は廃れた。
そして現代。石油から原子力へとシフトしていた最中の原発事故。
ここでは原発の是非は語らないが、人間が「豊かさ」を求めた結果が軍艦島と原発被災地域の今の姿であるということは忘れてはならないだろう。
あとがき
実は私は来年から軍艦島と関係ある会社で、人の「暮らし」に関わる仕事に携わることになる。
そのためか、軍艦島のことは他人事に思えなかった。
利益ばかりを追求して歪んだ社会はいずれ限界が来て崩壊する。
軍艦島と被災地域を一種の戒めとして胸に刻み、仕事に取り組んで生きたい。
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