貧しい人が可哀そうだから?【私が国際協力に進む理由③】
3.ノブレス・オブリージュ?高貴なる者の使命としての国際協力?
【←前:②途上国のひとは“可哀そう”だから?】
もう一つ、国際協力を志す理由として、よく聞く言葉があります。
「ノブレスオブリージュ」。フランス語で、「高貴なる者の使命」という意味を指します。
以下コトバンクによれば、
《「ノブレスオブリージュ」》身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意。
要は、「大学に行って高等教育を受けられた(=高貴な)僕らだからこそ、貧しい人々に手を差し伸べる義務がある」という考え方です。
端的にいって、私はこの言葉がすごく嫌いです。
なぜって、この世界の貧困はある程度『構造的暴力』の産物でもあり、いわゆる『高貴なモノ』たちを「高貴」たらしめている地位や財産もその構造の上に成り立っているかもしれないから。
例えば、今私がこの記事を書いているパソコンや、明日の朝目覚ましに使う携帯電話に使用されている「レアメタル」は、アフリカのコンゴ民主共和国にて採掘され、多国籍企業に利益をもたらすのと同時に武装勢力の資源となっているかもしれない。
「フェアトレード」をウリにするフィリピン産のバナナがいつもより高いのは、いつもスーパーで買っているバナナは、実は原産地での低賃金労働を前提としているからかもしれない。
私たちが毎年の流行に合わせて様々なファッションを楽しむその裏で、途上国の子どもたちが児童労働を強いられてはいないと、誰がどうやって確認することができるでしょうか。
構造的暴力の文脈においては、気づかずに暴力の歯車の一部となってしまう可能性を、完全に棄却することができません。それは「たかが一部」と切り捨ててしまうこともできるけど、でもその一部が欠けていれば歯車は回ることができない。そして歯がゆいことに、私たちの生活はもうその世界大で回る巨大な歯車の一部に組み込まれており、簡単に抜け出すことすらできません。
中世史なんて詳しくもなんともないけれど、「ノブレス・オブリージュ」という言葉には、それを生み出した当時のフランスの貴族たちが、社会の身分制度の上に繁栄を極め、自ら「高貴なもの」と形容し「社会的責任」の有無を謳っていたそれに近しい何かを感じてならないのです。
とてもじゃありませんが、自分の夢の理由をそこに見出す気にはなれませんでした。
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