貧しい人が可哀そうだから?【私が国際協力に進む理由②】】
2.途上国のひとは“可哀そう”だから?
【←前:①まず聞きたい。私たちは何のために生きるか?】
ここまで話すと、私がたいそう立派な人間にきこえるかもしれない。今日はそれを張り切って否定していきたい。確かに、「恵まれない人たちのためのお仕事がしたいなんて、えらいね。」なんて、言われることはしばしばでした。
ただ、「でも、なんて国際協力なの?」って人に聞かれたとき、いつしか、自分がまだその答えを知らないことに気づきました。
「だって発展途上国のたちが可哀そうだから。」なんて陳腐な言い訳にも、そもそも「恵まれない人たち」という言葉自体にも、どこか、ほっとけない違和感があったのです。
確かに、私を最初に国際協力の道へと突き動かしたのは、高校生のときに難民という存在を知ったときに激しく感じた、「世界には家がない人がいるなんて…!」という、無知からくる衝撃と、ちっぽけな同情でした。
そして、実際に“発展途上国”と呼ばれる国々に行ってみると、今にもつぶれそうなビニールの家にすんでいる人もいる。路上で体を洗っている人も、生まれた時から20年間難民として、外国人として生きてきた人もいる。
でもそこには、例えば日本にはない美味しい食べ物があったり、美しい景色があったり、素晴らしい文化があったり、日本にもかつてあったであろう、コミュニティの人と人との深い繋がりが残っていたりすることもある。もしかしたら、「可哀そう」なんてとんでもない、私たちの社会における物質的な生活水準という色眼鏡をかけて、異なる社会をあくまでも上から目線で見た結果の、価値観の押し付けだったのかもしれない。
そう気づいたときから、「可哀そう」なんて言葉、おこがましくて口にするのも恥ずかしく感じるようになりました。
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